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『コラム』

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ラグスタ株式会社
2021/10/18

プロマラソンランナー 川内優輝選手 【CittaスペシャルインタビューVol.1】

公務員ランナーとして多くの大会で記録を残し一躍有名に。

最強の市民ランナーから現在、あいおいニッセイ同和損害保険(株)所属のプロマラソンランナーとしてご活躍中の川内優輝選手の特別インタビュー。

Vol.1では、最強市民ランナーになるまでにはどんな努力があったのか、当時の経験や背景を探っていきます。

最初は走ることは好きではなかった。両親の言う事を真面目に守って続けた「走ること」

プロマラソンランナー川内優輝選手インタビュー

ーー今の川内優輝選手に繋がっていく過去の事をお伺いしていきます。
今までずっと陸上競技をされてきたのでしょうか?

【川内優輝さん(以下敬称略)】はい。6歳から陸上を始めました。

その時から長距離(競技的には中距離)、800mや1500mから始めて、徐々に距離を伸ばしながら小学6年生の時には2㎞~3㎞、中学生は1500m、3000ⅿ、駅伝、高校生の時は5000m、駅伝といった感じで段々距離が伸びていきました。

 

ーーなるほど!6歳から陸上を始めたきっかけはなんでしょうか。

【川内】きっかけは、自分からやりたいといった訳ではなかったのですが、両親に勧められてというかやらされて・・・(笑)始めたのがきっかけです。

両親がスーパーで「ちびっこ健康マラソン大会」があるという事を知って申し込んで出てみたら、5番になったんです。(笑) 

それから毎日練習すればもっと速くなると思って毎日練習していたら、次の年に2番になり、それからずっと毎日走るようになっていたということなんです。

 

ーー素晴らしいです!その当時から向上心が感じられますね。

【川内】いや~、でも当時は真面目に両親の言う通りにしていたというだけで、実際走るのは好きではなかったので。(笑)
当時はレース前になったら雨で中止にならないかなといつも思っていましたね。

毎日練習しているのに、サッカーやってる友達に負けたりするので、悔しかったし、もう~なんでだよと嫌になることも多くありました。

 

ーーそうだったんですね、今はレース前の気持ちは当時とは変わっていますか?

【川内】はい!今は毎回ワクワクしながらレースに臨んでいますね。

たまに緊張しすぎて失敗することもありますが、今は楽しい気持ちでレースに挑めているなと思います。

「日の丸を背負う」こと。それが本業としてのマラソンの気持ちを強くさせた

プロマラソンランナー川内優輝選手インタビュー

ーーそうやって今までずっと続けられてきたマラソン競技。「趣味としてのマラソン」と「本業としてのマラソン」 川内選手が思う2つ違いをお聞かせください。

【川内】そうですね。趣味としてのマラソンは本業として別の仕事があったうえで、大会などに出る費用を全て自分で払って走ること。本業としてのマラソンは、会社に所属する実業団や、プロランナーとしてスポンサーが付く事で、走ることでお金をいただくということ。そこは大きく違うところだと思っています。

そういった部分で言うと、日本代表になってプレッシャーという部分で私も、プロランナーと同じ気持ちでプロ意識を持ってやっていて、「日の丸を背負う」「背負わない」という事でも気持ちは違って、限りなく「趣味」と「本業」の境目がない状況に私はありましたね。

実際に日本代表になってからは、全国各地のマラソン大会に招待選手として呼んでいただけて、参加にかかる全ての費用を負担いただけていたので、今まで年間100万円以上かけていた遠征費が、用具代や体のメンテナンス代だけになりました。

 

ーー公務員ランナーとしてご活躍される中で、数々の実業団からのお誘いもあったとのことですが、なぜ公務員ランナーのまま挑戦を続けられていたのでしょうか。

【川内】実業団に行かなかった理由として、高校2年生の頃、怪我をしてから結果が出ずに高校生活を過ごして、自分自身でも箱根駅伝に出るような大学には行きたくなかったこともあり、マラソンがそこまで強くない大学へ進学しました。

ですが、大学での練習で記録がグンっと伸びたんです。

当時の練習は、1日1回の練習、そのうち週に2日間きつい練習をし、その他はジョギングか休みといった感じでやっていて、この環境なら実業団に行かなくてもまだ記録は伸ばせると思ったことと、学業を並行しながらでもこのスタイルならやっていけると思ったので実業団には行きませんでした。

あと、猛勉強して公務員になる道を選んだので無駄にはしたくなく、そのまま公務員になりました。

その後、公務員ランナーとなってからも実業団からのお誘いがあったのですが、当時も記録が伸びていたので練習環境や練習内容を変えようとは思わず、お断りをしていました。

 

ーーなるほど。そういった経緯があったのですね。
「公務員ランナー」でご活躍されていた時は、練習スケジュールはどのように組まれていたのですか?

【川内】私は、夜間高校の勤務だったので、出勤がお昼でした。朝ご飯を食べてから少し間を空けて、1時間30分~2時間程度の練習をして出勤をし、夜まで勤務をして寝る、というサイクルで1日を過ごしていました。

入試のシーズンや入学式など忙しい時期は朝から勤務することもあり、その場合は片道18㎞の通勤路を行きか帰りに走ってその日の練習をその時間で済ませるようにしていました。

よくメディアで出ていたリュックを背負って走る日というのは駅まで走っていた部分で、あくまでも午前中に練習をする事をメインで行っていました。

自分が強くなり続けることで世界中どこへでも行けるチャンスがある。それが最大のモチベーション

プロマラソンランナー川内優輝選手インタビュー

ーー公務員のお仕事と練習の両立は肉体的にも精神的にも辛かったこともあると思いますが、なぜそれが毎日続けられていたのでしょうか。何が川内選手をそうさせていたのか教えてください。

【川内】1つはルーティーンになって、「走ることが生活の一部になっていた」ので続けやすかったという事があります。

あとは、各地の大会に招待して出場させていただくうえで、プロ意識を持って常に全力の走りをしなければと思っていたので、平日に怠けるわけにはいかないと思っていました。私はレースは練習といって毎週末は大会に出ていたので、平日の練習で手を抜くと、週末の大会でいい結果が残せないと思って頑張れた部分と、大会でいい結果を残して強くなればなるほど各地日本だけではなく、世界中のから招待選手として呼んでいただけるようにもなり、もっと強くなって、世界中の大会から招待されるような選手になろうと思って頑張る糧になっていました。

私は趣味が旅行なので、自分自身が強くなることで日本中そして世界中に、招待で旅行に行けるということも1番大きなモチベーションになって、10年間市民ランナーを続けていられました。

 

ーーそのモチベーションは大きいですね!海外試合のご経験の中で1番環境的に良かったという場所はありましたか?

【川内】そうですね。今まで30回以上海外に招待いただいて参加していますが、夏場だと、オーストラリアのゴールドコーストが大好きです。

7月の開催ではありますが、オーストラリアは冬なので20度前後でとても良い気候の中走ることが出来て、毎年のように出場し、今までで8回出場して優勝もしていますが、日本じゃありえないくらい夏場の環境としていいレースが出来る場所ですね!
どの場所もゆっくり観光はできませんが、次の日の朝にジョギングで現地を周ったりできますし、現地の美味しい食事も食べられるので、マラソンをやらずに公務員だけで働いていたら、絶対に出来なかった経験だと思っています。

 

ーー公務員ランナーの当時はどんなトレーニングをされていましたか?
走るトレーニングの他にされていた事がありましたら教えてください。

【川内】筋トレを仕事から帰ってきて20分程度行っていました。
手作りの道具でチューブトレーニングや体幹トレーニングを行っていました。ジムに行く時間とお金がもったいないという事もありましたし、大きな筋肉をつける必要はなかったので、自分の体重を利用したり、軽めの重りで複数回やるトレーニングを続けていました。

高校の時にトレーニングをしっかり教えてもらう環境があり、その時に意味があったと思うトレーニングをプロになった今でも変わらず続けているといった感じですね。

招待選手として“決して断らない”
必ず出場することで使命を全うし、招待側への敬意を示す

ーー公務員ランナー時の記憶に残るエピソードをお聞かせください。

【川内】 2018年のボストンマラソンで優勝したことが一番記憶に残っています。

自分自身、「ボストンで勝つ」というのは自分でも想像していなかったことで、いつかワールドマラソンメジャーズという世界のマラソン大会の表彰台に登りたいなという夢はありましたが、まさか当時アマチュアだった自分が、世界の名だたるプロ選手の中、優勝できたという点で世界中の選手に衝撃が走って、そこからファンになってくださる方も出来て、私にとっては一番印象的で記憶に残る大会です。

勝てると思っておらず、すぐに帰る予定だったのですが、翌日の優勝者インタビューの為に校長先生に有給を出して休みを延長したというエピソードが英語でも翻訳されていて、そこでも一躍話題になったという点とプロではなくアマチュアの自分が成し遂げたという点で、いろんな方の記憶に残った大会だったと思います。

辛かった出来事は、2014年に左足首を捻挫してから結構痛みが長く続いてしまって、2015シーズンがほぼボロボロになってしまった事ですね。

なんとか2016年シーズン後半から痛みも良くなりましたが、また捻挫してしまったりして、2016年シーズンも思うようにいかず、2015、16年シーズンは公務員10年間でだいぶ厳しい時期でした。

私の中で、招待を受けたレースにはどんな理由があろうとも必ず出場する事は決めてこだわっていたので、痛みを我慢しながら16週連続レースに出たりという事をしていました。

それも怪我の治りを長引かせてしまったとも思うのですが、招待していただいて引き受けたからには、全部出場し、しっかりとした走りをみせることは崩したくなかったですね。

プロマラソンランナー川内優輝選手インタビュー

インタビューのお答えからも、川内優輝選手の真面目なお人柄を感じ、どんな状況であっても手を抜かない姿勢が誰もが認め、愛する「最強市民ランナー」に繋がった理由なのだと強く感じました。
  次回Vol2.では、多くのレースに出場し結果を出し続けられる強さの秘訣、プロランナーに転向した今の事を伺っていきます。

 
川内優輝

人物アイコンPROFILE

プロマラソンランナー 川内優輝選手

川内優輝

あいおいニッセイ同和損害保険株式会社所属
6歳から陸上を始め、学習院大学時代は箱根駅伝に関東学連選抜(現.関東学生連合)6区として2度出場。その後公務員としても競技を続け、「最強の市民ランナー」として各地様々な大会で記録を残し、一躍有名に。市民ランナーでありながら、日の丸を背負う期待の選手として世界陸上大邱大会に出場。
その後も年間100回以上各地、各国のレースに出場し、2018年のボストンマラソンではアマチュアランナーとして優勝を成し遂げた。
2019年4月からプロランナーに転向、昨年、通算100回のサブ20を達成しギネス記録にも認定された。
まだまだ進化を続けながら、日本中、世界中を飛び回り夢を実現し続けている。


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