『コラム』
- サン・クロレラ
- 2024/10/31
広大なロシアで奮闘する小さな巨人。
前回インタビューしたのはおよそ3年前の2021年、佐藤優選手がまだ19歳の時だった。
当時の彼は北米のジュニアリーグUSHLのチーム「Lincoln Stars」に所属していた。かつてわずか11歳で初めてロシアの地にホッケー留学した佐藤優選手は、5年間ロシアでプレーしたあと、フィンランドのチームへ移籍。そこでの活躍が認められ、ジュニアでは世界最高峰のリーグでアメリカNHLの登竜門ともいわれるカナダCHLの外国人ドラフト枠にアジア人で初めて選出された。
しかしその矢先、新型コロナウイルスによるパンデミックが発生。カナダのCHLリーグは中止。佐藤選手は活躍の場を求めて、USHLに移籍していたのだった。ここまでの詳細は前回記事を参照してもらいたい。
⇒「届け、世界のリンクへ」佐藤優選手インタビュー
あれから3年の時を経て、ロシアのプロホッケーリーグKHLに活躍の舞台を移した佐藤優選手。
前編では、ふたたびロシアへ渡った経緯や、日本ではあまり情報のない知られざるロシアリーグの現状、そしてそのロシアのリーグで過ごした2シーズンについて振り返ってもらった。
幼少期から結ばれていた、ロシアホッケー界との深い絆。
佐藤優選手が初めてロシアの大地を踏んだのは2013年、彼が11歳のときだった。
当時たまたま埼玉栄高校のコーチとして赴任していたアイスホッケー元ソ連代表のワシリー・ペルウーヒン氏が、まだ小学生だった彼に声をかけたことで実現したアイスホッケー留学。それが彼とロシアとの縁の始まりだった。
名門チーム「Krylia Sovetov(クリリア・ソビエトフ)」のトライアウトを受けると見事合格。
あれよあれよという間に、ロシアでの生活と新しいアイスホッケー人生が始まった。
その後、16歳でフィンランドのリーグに移籍すると、そこからカナダ、アメリカと海外のさまざまな国のジュニアリーグで、さまざまなスタイルのプレー経験を積んできた佐藤優選手。
そうした紆余曲折を経たいま、彼は2023年に日本人初のKHLプレーヤーとしてプロデビューを果たし、ふたたびロシアのリーグでプレーすることを決断した。
現在、彼が所属しているのは「ニジニ・ノヴゴロド」。モスクワから東へおよそ450kmの位置にあるニジニ・ノヴゴロドという街にあるロシアKHLというプロリーグのチームだ。
ロシアのアイスホッケーリーグについて日本ではあまりくわしく知らないという人も多いだろう。実はこのKHLは世界最高峰の北米NHLに次ぐ世界第2位の強豪リーグ。
ロシアはもちろんベラルーシ、カザフスタン、ラトビア、フィンランド、スロバキア、中国などさまざまな国から全22チームが参加するユニバーサルなリーグであることも特徴のひとつだ。
ただし現在はウクライナへの侵攻の影響で、西側諸国を中心に多くの国のチームが撤退。ロシア以外ではベラルーシ、カザフスタン、中国のチームのみが参加している。
そこで気になるのはコミュニケーションだ。それだけ多くの国の選手が集まるなかで、どのようにしてチームメートとのコミュニケーションを図っているのか。
【佐藤優選手(以下敬称略)】小学5年生から高校1年生まで5年間ロシアでプレーしていたとき、現地の学校に通っていたので、そこでロシア語は話せるようになりました。だからロシアの選手とはロシア語でスムーズに会話することができます。
また北米でのプレー経験もあるので、アメリカやカナダなど英語圏の選手とは英語でコミュニケーションしていますので問題なくやり取りできています。
もうひとつロシアリーグの特徴として挙げられるのが、その移動距離の長さだ。
広大な土地を有するロシアゆえ、国内移動といっても、たとえばモスクワからハバロスフクへ移動となると飛行機でおよそ9時間。トップリーグであるKHLであればチャーター機が用意されるが、二部のVHLだと一般の旅客機を利用することになる。
【佐藤】試合は基本的に夕方に開催されます。試合が終わったらその日の夜のうちに移動開始。さすがに翌日に試合は組まれていないのですが、それでもかなり大変ですね。時差もかなりありますしね。
モスクワ時間では夜なのにハバロフスクは朝だったりするので、とりあえず現地に着いたらすこし昼寝して、起きたらすぐ試合して、試合が終わったらすぐまた飛行機でモスクワへ戻ってという感じです(笑)。
不安や迷いは一切なかったという今回のロシア行き。
実は今回の移籍には、反対する声もあったという。
もちろんロシアーウクライナ間での紛争がもたらす影響を心配してのことだった。「なにもいまロシアのリーグに行かなくても」「戦争が終わってからでもいいのではないか」、そうした意見が出るのはもっともだ。
しかし佐藤優選手は、そうした周囲の反対にもかかわらず、KHLへの挑戦を選択した。意外なことに本人には全く迷いはなかったという。
【佐藤】ぼくとしてはKHLというハイレベルなリーグのチームからオファーをもらえて、ここでこの話を蹴ってしまうのは、あまりにもったいないと思ったからです。
しかもまだ日本人が誰もプレーしたことのないKHLに挑戦できること。そこで活躍すれば目標であるNHLにも近づけること。そう考えると断る理由はあまり見つかりませんでした。
それにぼくにしてみれば、小学生のころからロシアでプレーしていましたし、当時の憧れのリーグでもあったので、そこは一切の迷いなく決断できました。
実際、いまのところ戦争による生活への影響はとくにないと佐藤優選手はいう。
日本のクレジットカードが使えないことや西側諸国のSNSが使えないこと、西側諸国のブランドやメーカーが撤退して市場から消えたことくらいで、食料や日用品が不足しているという印象もなく、日常生活はとくに変わっていないそうだ。
もちろんこれは佐藤優選手の印象であり、すべての都市で同じ状況にあるかどうかはわからない。ただ、こうした実態はあまり報道されておらず、現地に住んでいる彼にしかわからない貴重な情報であるともいえるだろう。
将来のNHLでの活躍を見据えた、肉体強化と身体づくり。
KHLのプレースタイルはヨーロッパのそれと似ていて、スキルとテクニックを重視したパスホッケー。いっぽうNHLをはじめ北米リーグでは、当たりも強くガツガツしたいわゆるフィジカル重視のスタイルだ。
佐藤優選手は子どもの頃からロシアでプレーしていたとこと、あまり身体の大きな選手ではないこともあり、どちらかといえばロシア・ヨーロッパのスタイルが合っているという。
しかし最終的な目標である日本人初のNHLフィールドプレーヤーとなることを見据え、今後はフィジカルの強化にも取り組んでいきたいと語った。
【佐藤】さっきも言ったように、KHLにも元NHLプレーヤーや北米出身の選手がたくさんいて、そういう選手に対して当たり負けたりすることは正直あるので、もちろんフィジカル強化も大切なんですが、いっぽうで日本人特有のスピードと俊敏性にプラスして、ロシアで培ったスキルやテクニックを組み合わせて戦えば、個人的にはじゅうぶんカバーできると思っています。
身体づくりの一環として、佐藤優選手は3年前から、サン・クロレラのクロレラ製品を愛用している。毎朝、サン・クロレラAパウダーを水に混ぜて飲んでいるという。
【佐藤】ぼくも最初はオレンジジュースに混ぜたりして、いろいろ試していたんです。でも最終的に辿り着いたのが水でした。理由はその飲みかたが、もっともクロレラの味を感じられるから。
それに味が濃い方が『身体にいいもの摂っているぞ!』という実感が持てますしね。いまはむしろこの濃いクロレラの味が好きになっています。
海外で偏りがちな食事、しかも気軽に簡単にいつでもどこでも飲めるのがいいと話す佐藤優選手。
とくに北米にいたころはチームの食事でもジャンクフードが出てくることがあり、試合が終わって食事がピザ一枚ということもあったという。
またサン・クロレラの製品はアンチドーピングであることで安心感につながっている。
とくにロシアではアスリートのドーピングが社会問題化し、国際大会でのチェックもひときわ厳しいこともあり、KHLでプレーする彼にとってアンチドーピング製品であることは、日本で想像する以上にとても重要なことなのだ。
KHLでの所属チームがあるニジニ・ノヴゴロドという街はモスクワの郊外で、若者が遊べる遊園地やテーマパークもなく、ショッピングモールに行っても西側の有名ブランドの服や雑貨、飲食店はないため、オフの日もあまり街に出歩くことはないという佐藤優選手。
またVHLのチームがあるペンザという街は人口50万人とさらに小さな街。それゆえ休日も近くを散歩したりし、家でYouTube見たりして過ごすことが多いのだという。
そのYouTubeでも結局はアイスホッケーの試合を見ているということだ。「ときどきボルシチやペリミニという水餃子に似た料理を作ったりするのが唯一の趣味らしい趣味かも」と笑う彼だが、極北の大地での現在の彼の生活は、まさに「アイスホッケー漬け」ともいえるもので、NHLという夢にフォーカスするにはうってつけの環境なのかもしれない。
▼後編はこちら
⇒広大なロシアで奮闘する小さな巨人。プロアイスホッケープレーヤー佐藤優 後編
PROFILE
プロアイスホッケープレーヤー 佐藤優
2002年4月17日 生まれ。
日本人初のKHLプレイヤー「ニジニ・ノヴゴロド」所属。U-20日本代表。
3歳から父がコーチを務める「埼玉ジュニアウォリアーズ」でアイスホッケーを始め、11歳でロシア「Krylia Sovetov」へ。
その後、16歳でフィンランド「Kiekko Vantaa」でリーグポイント王を獲得。17歳でアジア人初のインポートドラフトを受けてカナダ「Quebec Remparts」へ。
世界最高峰のジュニアリーグ・CHLでプレイした後、カナダでのプレーを経験し、KHL入した。日本人FWとしてNHL入りを目指す。